中田 美緒(なかた・みお)
2001年神奈川県生まれ。清水建設株式会社所属。
神奈川県平塚ろう学校、東海大学卒。
中学1年でバレーボールをはじめ、15歳でデフバレーボール女子日本代表に初招集。2016年、高校1年生時のデフバレーボール世界選手権でベストサーバー賞を受賞し、翌年のサムスン2017デフリンピックではチームを金メダルに導く。東海大学では2021年・2022年とインカレ連覇を果たす。
2024年6月に沖縄で開催された世界選手権でも見事金メダルに輝き、ベストセッター賞を受賞。日本の、そして世界のデフバレーボール界を代表する存在。
選択のきっかけ。その一つは「手話」
――バレーボールを始めたのはいつ頃ですか?
中学1年生の6月ぐらいからで、小学1年から中学1年の途中までの7年間はずっとサッカーをしていました。中学からろう学校に進学したのですが、その学校にはサッカー部がなくて・・・。あったのは野球部、卓球部、美術部、それとバレーボール部。
そのとき、サッカーは地域のクラブできこえる人たちと一緒にやっていたのですが、チームメイトとコミュニケーションがなかなかうまくとれず、苦しくなってしまっていたんです。その中で、ろう学校の部活なら手話でコミュニケーションがとれるから楽しめるかな・・・と。サッカーを続けるか、ろう学校の部活を選ぶかで悩んだんですよ。それで、一番上の姉がバレーボールをやっていたこともあり、やってみたい気持ちもあったので「バレーでいいかな」って(笑)。他の部活はどれも私には向いてなかったですし、それもバレーにした理由ですね。
――バレーボールは初めから上手にできたんですか?
いえいえ、そんなことはなくて。遊びではやったことがあったけど本格的にはなかったですし、姉の同級生や先輩たちだったり上手な人の真似をしながら、少しずつ上手くなっていった感じです。真似をしてみて、それができたときは本当に楽しかった。その楽しさをまた感じたくて、もっと感じたくて。その連続でしたね。
実力がつき選んだ道。そこで示せたデフのスタイル
――大学は東海大学に進学していますが、選んだ理由はなんですか?
一つは、中学生のときから保健体育の先生になることが夢だったので、教員免許を取れる体育学部があったこと。もう一つは、地元に近い平塚市で、東海大学の選手が中高生にバレーを教えてくれる教室があって、そこに中学生のときに参加したんです。ろう学校から参加した人はそれまでいなかったので、大学生は手話がわからないし、私もきこえないので何をしているのかよくわからないまま、周りを見ながら練習をしていました。そのときに、もし自分がこの大学に入れば、ろう学校の生徒が参加してきても手話で教えることができるなって思ったんです。そんな思いから、東海大学に行きたい!ってなりました。それに、あのとき教えてくれた大学生たちがやっぱり格好良かった。私もこうなりたいなって憧れもありましたね。
――大学では聴者と一緒にプレーをしていますが、デフバレーではどのような違いがあるのでしょうか?
ルールはデフバレーも一緒です。一般的なバレーでは反則があったときなどホイッスルの音で警告しますが、デフバレーの場合は音がきこえないので審判がネットを揺らしたり、ラインズマンが旗を振るなど、視覚でわかるように工夫されています。
――聴者と一緒にプレーをするときに心がけていたことはなんですか?
聴者は声を使ってコミュニケーションを取りますよね。私の場合は自分から声を出すことはできるけど、周りの声はきこえないんです。なので声を、手のサインに変えてもらいました。例えば、2本目のボールを取りに行くときに「いくよ」と示すのを『手を振る』ので表すとか。どんなときにどんなサインにするか、コートに入る前に私からこうしてほしいとお願いしたり、チームでの約束ごとを決めていました。
――中田選手が入ったことで聴者の人にも変化があったのではないでしょうか?
聴者は耳を頼りにプレーするので、案外視野が狭いんですね。対してデフの私は目でのみ情報を拾うし、判断をします。私のそういった意識やプレースタイルを見て、チームメイトにも目も使う意識がでてきて、少しずつ視野が広がった。バレーは音だけではなく目も必要だということがわかったと言ってもらえて。私がこのチームに入った意味や価値を感じられて、とても嬉しかったですね。
――大学で聴者と一緒にプレーをしたことはデフバレーをするうえで影響がありましたか?
すごくありました! レベルの高い大学で学んだことを、デフの選手たちに伝える機会が増えました。デフの選手にプレーについて聞かれたときには、私の考えだけでなく大学のチームメイトにも聞いて両方の意見を伝えたこともあるし、プレーの動画を撮ってデフの選手に送ったりもしました。大学の力を借りながら、デフバレーのレベルを上げていくことができたんです。
「目に見えない障害」 大きな壁を乗り越えた瞬間
――これまでバレーを辞めたいと思ったことはありますか?
一番苦しかったのは大学のときですね。高校もろう学校に通ったのですが、本当は高校でもバレーが強いところに行きたかったんです。でも、その希望していた学校は授業での情報保障があまり追いついていなかったので、ろう学校に行くことにしました。その中で大学は、もっとバレーをうまくなりたい・成長したい思いから、強豪の東海大学に入学して4年間バレー部に所属しました。
東海大のバレー部には今まできこえない人がいなかったので、みんな、初めは私とのコミュニケーションの方法がわからない・・・という状況だったんです。入部してすぐに大会があったのでタイミングが無く、自分の聴覚障害について説明できないまま部活を続けていました。けれど、やっぱりなかなかコミュニケーションがとれなくて。それで、バレーも楽しくなくなってきてしまって・・・。そのときは本当に辞めたいと思いましたね。
でも、大学のバレー部の同期が「バレー好きなんでしょ」「きこえないのは関係ないよ」といろいろと声を掛けてくれたんです。そのおかげで、なんとか考え直すことができました。そこで環境を変えるために、部員みんなと監督へ、自分の聴覚障害についてプレゼンをしたんです。どのぐらいきこえないのか。きこえないと後ろから話しかけられても気づけない、だからコミュニケーションをとるときは、まず自分の視界に入ってから話してほしい。バレーで使う手話にはこういうものがある・・・。そういった内容をパワーポイントでまとめて説明したんです。そうしたら、「そうだったの?全然知らなかった」となって、みんながコミュニケーションの取り方についてすごく考えてくれるようになったんです。そこから少しずつコミュニケーションを積み重ねることができて、プレー中により良いパフォーマンスをチームでつくれるようになりましたし、何よりコートの外でもみんなとの会話が増えたんです。それが、今までで一番大きな壁を乗り越えた経験ですね。
――プレゼンをしようと思いついたきっかけは何だったのでしょうか?
デフバレーボール女子日本代表の狩野美雪監督に辞めたいという話をしたら、「きこえないことをきちんと説明したのか?」と聞かれて。耳がきこえないのは目に見えない。だから当事者から説明をするのが一番理解してもらえるじゃないか、というアドバイスをいただいたんです。それがきっかけで話そうと思って、資料をつくってプレゼンをしました。そのおかげでみんなの理解が深まって、日常生活で使う手話にも関心を持ってくれたり。喜びとともに、ホッとしたのを覚えてますね。
相手を翻弄したら勝ち!
――中田選手は初めからセッターだったのでしょうか?
そうですね。バレーを始めた中学生のときから何となくセッターになっていて、アタッカーも少しやりつつでしたが、本職はセッターでした。アタッカーは、レシーブをして・走って・アタックを打たなきゃいけないので仕事が多くて大変です(笑)。セッターももちろん大変ですが、対戦相手を翻弄できますよね。相手のブロックの方向を読んで逆にトスをあげて決まったときは「私の勝ち!」みたいな。その楽しさはセッターならではですし、一番好きなところですね。
――セッターの大変さはどんなところですか?
セッターは試合中、チームの選手一人ひとりをコントロールしています。選手の調子を見て、今はこの人にボールをたくさん集めようとか、この人は今は休ませようとか。さらに相手のブロックのどこが一番高いかを見極めて、攻撃するポイントを考えます。レシーブしたボールが上がっているときに、アタッカーと、アタッカーが出すサインを見て、かつ相手のブロックのポジションなどの状況を見て、どこにトスをあげるか一瞬で判断する。それは大変といえば大変・・・かな。「負けはセッターの責任、勝ちはチームの力」と言うこともありますが、そのくらいセッターのコンディションは勝敗につながってくるので、責任もプレッシャーもあります。そこが大変でもありますが、大きなやりがいですね。
――理想とする選手はいますか?
いろいろな選手をたくさん観てきましたが、一番好きなのは宮下遥さん! ジャンプトスの技術がとても高くて、ほぼすべてジャンプトスであげるんです。ジャンプトスは高い位置でボールをトスできるのでアタッカーの打点が近くなり攻撃が早くなったり、攻撃の幅を広げることができます。バレーを始めた中学1年生のときからジャンプトスには思いがあって。ずーっと動画を見て勉強しています。
――そうした動画はよく見るのですか?
中学のときからもう毎日(笑)。『月刊バレーボール』もずっと読んでますが、映像の方が真似しやすいのはありますよね。宮下さんの戦略的なところ、攻め方や判断など総合的に参考にしています。
伝統を受け継ぎ、次の世代へつなぐ
――ご自身の強みはなんだと思いますか?
ハンドリングです。ボールに対して手の使い方、受け方が良いと言われます。そのせいか、あまりドリブルがないですね。ハンドリングの技術を意識して磨いてきたからこその自信ではあります。そのうえで、今はジャンプトスをしっかり安定してあげられるようにチャレンジしているところです。
――6月に沖縄で行われたデフバレーボール世界選手権で見事優勝しました。日本の強さはどこにあると思いますか?
一番の強みはサーブです。日本は身長が低いので、どうしても高さでは勝負ができない。だから守備がとても大事になります。まず攻めのサーブで相手を崩して、チャンスボールを奪って、そこから速攻で攻めていくというのが日本の得意とするプレー。今もその強化に集中して取り組んでいます。世界選手権で優勝したことで、東京2025デフリンピックでは世界が私たちを倒しにかかってくるので、もっともっと強くならなくてはなりません!
――日本代表に15歳で選ばれて以来、11年にわたって代表に関わってきていますが、日本代表の中で自分自身の立場や役目の変化はあるのでしょうか?
初めて日本代表に参加したとき、最年長が33歳と10歳以上離れていて、当時は中学生でしたしコミュニケーションをとるのが難しかったですね。ですが代表活動を重ねていく中で、先輩たちが経験してきたデフバレーのこれまでの歴史だったり、先輩たちの代表に懸ける思いだったりを話してくれて。今は年齢的にも中堅になり年下のメンバーも増えてきたので、築かれてきたこれまでの歩みや思いを受け止めつつ、自分の経験を積み重ねて後輩に伝えていくのが一つの役目かなと。時代を引き継いでいる感覚があります。
――引き継ぐ役目、チームをまとめる立場にシフトしていったのはいつ頃からですか?
サムスン2017デフリンピックが終わった頃からですね。そこでメンバーが半分以上引退して、当時のメンバーで残っていのは長谷山優美選手と平岡早百合選手、尾塚愛実選手、私の4人だけ。ほぼ新しい選手となり生まれ変わったようなチームですが、この4人しか知らないこと・伝えられないこともあるので、「次の大会では4人で頑張らなきゃね」って話していましたし、監督からもそう言われていました。
――高いモチベーションを維持する原動力は何ですか?
今の私にとって、人生はバレーボール。バレーボールが命なんです。現役でい続けるには年齢など限界があるのは当然なので、だからこそ今、身体を動かせるうちはもう全力でやる。それが、私の人生。そんなふうに考えています。「やれることをやりきる」。それができるのは常に「今」だけ。それが私の原動力です。
――来年、デフリンピックが東京で開催されます。それを知ったときはどのように思いましたか?
日本で開催するかもしれないと知ったのは2022年、カシアス・ド・スルデフリンピックのちょっと前だったかな。そのとき、2025年には25歳になるので年齢的にもちょうどいいなと思ったんです。25歳は元気で体も動かせるし良い年だと(笑)。東京2020オリンピックで、選手がインタビューで「たくさんの勇気や夢を与えたい」と話しているのを見て、デフの選手として同じ思いがある私にも、実現できるチャンスが巡ってきたなとも思いました。
――東京2025デフリンピックの目標を教えてください。
もちろん、金メダルです。世界選手権で優勝したのはとても嬉しかったのですが、だからこそデフリンピックの金メダルがますます欲しくなりました。デフリンピックはデフスポーツの最高峰の大会。そこで優勝して自分たちの力を証明したいです。
繋がりをつくるのが好き
――ここからは中田さんのパーソナルな部分を教えてください。中田さんは周りからどんな人だと言われることが多いですか?
バレーが好きだよね、とはよく言われます(笑)。あとはボーイッシュ、素直・・・とか。初めて会う人にはクールだと言われることもあれば、話しやすいって言われることもありますね。私は繋がりたい人には自分からコミュニケーションを取りに行くことが多いので、逆に話かけられるととても嬉しい。自分の性格についてはあまり分析をしたことがないけれど・・・きちんと正しいことをやったほうが安心するので、地味というか真面目というか、そういうタイプです。
――これまでお話を聞いてきて、中田さんには意思の強さを感じますね・・・。そんな中田さんは、普段はどのようなお仕事をしているのでしょうか?
国際関係の仕事をするグローバル事業本部の総務部に所属しています。いろいろな仕事がありますが、メインは本社から海外支店、例えばシンガポール、マレーシア、アメリカなど20か国にあるので、そこへ社内便を送る業務などを担当しています。海外支店は連絡を英語でするのですが、初めはできなくて翻訳ソフトにお世話になっていたんですけど、今は少しずつ慣れてきて自分で英語を打って連絡できるようになってきました。自分の手で繋がりをつくれるようになってきているのが、楽しいですし、やりがいになっていますね。
――繋がりをつくるのに楽しさを感じてらっしゃいますが、他の競技でも日頃から繋がりのある仲良しな選手はいますか?
たくさんいます! その中でも普段からよく話すのは二人いて、一人はデフサッカーの選手で大学2年生の久住呂文華(くじゅうろ・あやか)さん。彼女はアジア大会で金メダルを取った経験もあり、以前はサッカーとフットサルの両方をやっていましたが、今はサッカー一本に絞って頑張っています。もう一人は同級生の、デフ陸上の上森日南子(かみもり・ひなこ)ちゃん。競技が違うからこそ価値観や考え方も違うので、話していると盛り上がるんですよね。競技のことだけじゃなくて、プライベートな話をしても考え方が全然違うのがまた楽しくて。三人でよくご飯に行ったり、テレビ電話をしたり、去年は旅行にも行きました。
――旅行の話が出ましたが、旅行はよく行くのですか?
大学まではバレーが優先で旅行には興味がなかったんです。でも社会人になってから仕事ばっかりの毎日だったこともあり、オフが必要なことがようやくわかってきて。少しずつですが、バレーの練習がないときは少し遠いところに行くようになったかな。オフを楽しみ始めたのは本当につい最近なんです。
――久住呂さん、上森さんの三人での旅行はどこに行ったのですか?
年末に三重県の伊勢神宮とナガシマスパーランドに行って、名物の伊勢えびを食べました。この旅行は前もって決めたのではなくて、三重は伊勢えびが有名らしいよ! え、そうなの?じゃあ行っちゃう? うん、行く! とノリで決まったんです(笑)。立派なお店で食べた一人1万円くらいする伊勢えびは本当においしかった!
「目は高く、頭は低く、心は広く」
――サッカー選手の友人といると、またサッカーへの思いが生まれてきたりは・・・?
小学校の卒業アルバムに、「夢はサッカー選手になってデフリンピックに参加すること」って書いているんですよ。実際にデフリンピックに参加することは叶ったけど、サッカー選手というところは叶っていません。実は、サッカーをしているときも日本代表に呼ばれていて。そのときは年齢制限でまだ代表選手にはなれなかったんですけれど、強化選手にはなれると言われていたんですよ。
2017年のサムスンデフリンピックに参加したときに、女子サッカーの元監督に会って。サッカーやらないの?と聞かれたので、「いつかは・・・」って答えたんです。もし生まれ変わったら、サッカー選手になりたいかな。
――元監督からの声掛けに気持ちが揺れませんでしたか?
迷いはありました(笑)。家族にも言ったことはないんですけど、もしバレーを引退したら、一回はサッカー選手としてデフリンピックに参加したいかな。久住呂さんが待ってるよって言ってくれていますし(笑)。でも、今はバレーが全てなので、もしもやるとしても2030年以降ですけどね!
――サッカーでも活躍される姿、ひそかに楽しみにしていますね(笑)。自身が発する一言ずつに思いが乗っかっているように感じられる中田さんですが、大切にされている言葉はあるのでしょうか?
バレーボール元日本代表の長岡望悠選手がおっしゃっていた言葉で、「目は高く、頭は低く、心は広く」です。常に高い目標を持つこと。常に感謝の気持ちを忘れないこと。周りの人から愛してもらえるような人になるということ。その言葉の通り、金メダル獲得という目標に向けて、日々感謝を忘れないためにも一日に一回は「ありがとう」と伝えるようにしています。愛してもらうには、まずはその人のために自分ができることをする。そうすると自然とありがとうと言ってもらえますよね。中学生のころに知って、そのときから大切にしている言葉です。
――良い言葉ですね・・・。最後に東京2025デフリンピックを楽しみにしている読者にメッセージお願いします。
パリ2024オリンピックのバレーはとても盛り上がり、私も全試合を観ました。思ったのは、1点の重さが大きいなと。単に25点を取ればいいというわけではなく、1点をどうやって取るのか。互いに死力を尽くした先にある1点。あの最高の舞台で全力で戦うみなさんの姿、そしてその積み重ねで進む試合を観て、1点の重みを強く感じたんです。だからこそ、観客のみなさんも心から熱くなるんだなって。私も、そんな1点を取って、1点の喜びをみなさんと一緒に味わいたい。そんな熱い試合を一人でも多くの方の前でやりたいです。みなさん、応援よろしくお願いします!
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《日本デフバレーボール協会》
Web:http://www.jdva.jp/
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text by 木村 理恵子
photographs by 椋尾 詩