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ENTERTAINER
2025をつくる人たち

かど 秀彦ひでひこさん

手話アートやライブペインティングで
気持ちを伝え合う楽しさを表現するクリエイター

門 秀彦|言葉以外のコミュニケーションを何かひとつ持てるといいよね

2023.09.21

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『TALKING HANDS』というコンセプトで門さんが描くカラフル&ポップな手話アート。
ろう者のご両親と暮らすなかで育まれていった言葉以外のコミュニケーションを大切にする気持ちと、作品から伝わるカテゴライズのない自由な世界観にふれた。

手話をポップなアートとして表現することで
路地裏から街なかへ、そして世界へと広がっていく

―絵を描き始めたのはいつ頃から?

 絵は小さい頃から描いていましたよ。ただほかの子と違ったのは、両親がきこえない人なので、日々の学校の出来事などを手話と絵で説明していたことです。
「ここに〇〇君の家があって神社があってさ、あいつと一緒に行って缶蹴りをしたんだ」とか。小さいときって、手話だけだとうまく説明ができなくて、それがもどかしくって手話の補足として絵を描いて伝えていたんです。両親の手話を真似して覚えたので、ぼくの手話は「長崎弁」なんですよ。しかも「門さんの手話は古い」ってよく言われます。昔の人に教わったからですね(笑)。
 小学校のときは、クラスメイトたちのワーワーとした話になかなか入れなかったんです。でも絵を描くのが好きだったんで、当時流行っていたマンガの絵とかをみんなにちょっと見えるように描いたりして(笑)。「仲良くなるためのツール」ですね。「絵がほしい」っていう子には描いてあげたりもしていました。

―手話をモチーフにした絵を描くようになったきっかけは?

 19歳のときに、地元の長崎に古い百貨店があったんですが、改修工事をやるので百貨店の前の露店が全部撤去されたんです。そしたらすごくさみしい通りになっちゃって、百貨店のオーナーが「改修工事を開始するまで、だれかこの壁に絵を描かないか?」と言って、働いていた洋服屋の関係のデザイナーさんがぼくを紹介してくれたんです。それで仕事が終わってから毎晩、絵を描きに行ってました。10メートルぐらいあるめっちゃ広い壁で、当時は動物の絵とかを描いていました。
 半分ぐらい描けたときに、うちのお父さんお母さんが夜、差し入れを持って見に来てくれるようになって・・・。そこでお父さんが、「友だちとこの絵の前で待ち合わせたら、すごくいいなあ」ってお母さんと話してるんですよ。それで「ああ、そうか。ろう者の人たちがここで待ち合わせをするときに、目印になるような絵があったらおもしろいな」と思って。それですでに描いていた絵の中に、手話の絵をいっぱい入れたんです。「こんにちは」とか「ありがとう」とか。

取材部屋にも広がっていた「TALKING HANDS」の世界

―それが現在の手話アートの始まり?

 そうですね。そしたら知り合いの雑貨屋さんが見て、「門くん、この絵おもしろいじゃん」って、手話の絵を指して言うんですよ。ラップを歌うときにこういう手の動きをやるでしょ(と、ラップでよくやる手の動きを見せて)。その人は、手話の絵がラップの手の動きだと思ったらしいんです(笑)。
 「イヤ、違う違う!コレ、手話なんですよ」って説明したらめっちゃ感動して、「コレは絵だけど言葉なの!?すごくいいよ!」って言ってくれて。この手話の絵をTシャツにして店で販売したいと。それで描き下ろした絵をTシャツにして売ったら、即完売でした。
 うちのお父さんお母さんがまちを歩いていると、ぼくが描いた手話の絵のTシャツを着ている人を見かけるほど人気だったんですよ。それを見た二人は、「自分たちの若い頃は手話をしているとジロジロ見られたり、からかわれたりしたから、ろう者の人たちもそれがイヤで人前で手話を使わなかったし、お店に行っても、ほかのお客さんからは見えないテーブルに集まっていた」って言うんです。そして、「そういう時代を思い返すと、今、若い子たちが手話アートのシャツを着て街を歩いていることに感動した」って。それを聞いてぼくは、「手話とイラストを一緒にしちゃってポップアートで表現すれば、若い子たちは手話アートのファッションでどんどん街の真ん中へ、世界の真ん中へ、一番目立つ場所へ広げて行ってくれるじゃん」と思ったんです。

―その頃に描いていた絵が、今の世界観の原点?

 手話の絵を描く前から、この顔のキャラクターを描いてはいました。ぼくは頭に浮かんだときの絵を忘れないようにラフスケッチをしておいて、あとから洋服を描いたり色をつけたり清書するんです。でも、小学校のときから仲の良い友だちがいて、ぼくの家に来ると「この絵もらっていい?」と言って持っていく。多分そいつは、ぼくの絵をぼくより持っていると思うんだけど(笑)。そいつが、「ラフ絵のほうがいいよ」って言うんです。ラフ絵だとキャラクターの性別もわからない。その分、見る人が好きにイメージして、感動したり喜んだりしてくれる。見る人の想像力の余地を残したほうがおもしろいなと思って、それでラフ絵を生かして描くようになりました。

―明るくカラフルな色使いはいつ頃から?

 若いときに油絵の画家の方と知り合って、絵の手ほどきのようなことを教えてくれたんです。でも、「プロは黒を使わない」とか「肌色は自分で絵の具を調合してつくるんだ」とか、いろいろ言うんですよ。「オレ別にプロじゃねえし、肌色じゃなくていいし、この絵のキャラクターをイメージして色をつけたいんだよ」と思って、黄色い人や赤い人や青い人とかを描き始めたんです。その人の言うことに対する反発ですね。それに明るい色使いが好きだし、みんなが絵を見て楽しくなったほうがいいと思ってね。

TALKING HANDS =相手への思いや気持ちを込めた「身体表現」。
ことばだけではなく、コミュニケーションの手段は無限大。

ぼくが堂々としていることは
両親が堂々と生きてきた証を示すこと

―門さんの作品をご覧になって、ご両親の感想は?

 手話をモチーフに使っていることをすごく喜んでくれます。「自分たちがろう者だから、子どもに苦労をかけたんじゃないか」という思いがあるようで・・・。でも、ぼくは両親がろう者ということを自分の個性のひとつだと思っているし、取材では両親のことも話しています。そのことを、両親は毎回喜んでくれています。
 お父さんお母さんが生きてきた結果の答えのひとつが「ぼく」だと思っているので、ぼくが堂々とだれにでも話すことで、お父さんお母さんが堂々と生きてきたという証を示しているような気がするんです。

―それはいつ頃から感じていた思いなのだろうか?

 反抗心があったんだと思います。自分の親以外の大人に対して・・・。カッコ良くて大好きな両親なのに、周囲からは「かわいそう」とか「がんばってるね」とか、“弱者が必死でがんばっている”みたいな言われ方に感じたり、「きこえない人だから下」、みたいなね。子どものときに、周囲から「ジロジロ見られてるな」と感じたら、あえて手話を使って周囲に見せていました。「上から目線で来る大人たち」に敏感だったのかもしれませんね。

―ご両親をカッコイイと感じていた理由は?

 お父さんは当時、長崎のろうあ協会の副会長をしていたんです。それでステージで話をしたり、若い人たちが話を聞きに来たり、人に慕われていました。すごくおおらかで、「わっはっはっ!」といつも笑っているような人だったので、子どもながらに「カッコイイなあ」って・・・。ぼくの友だちとか来ても、「おう!メシ食ってけ」と言ってくれてね。みんな両親のことを好きになるんですよ。「人間力がすげえ!」ってなんとなく思っていました。

互いをリスペクトし合いつつ
くくらず、自由に、ほうっておく

―デフリンピックが東京で初開催され、その節目ともなる2025年に向けて、門さんが感じることとは?

 この先、いろんな国の人が日本に訪れたり住んだりということが増えていくと思うんです。そのなかでさまざまな人とコミュニケーションをとるときに、今から「日本語も外国語も覚えましょう」なんて無理じゃないですか。
 例えばろう者の方と出会ったときに、なんとか伝えようとする人と、「ごめんなさい、わからないから・・・」とコミュニケーションをやめちゃう人もいると思うんです。でも、わからないなりに「伝えるにはどういう方法があるかな」と、ぼくは考えます。筆談とかジェスチャーとか口の動きとかで、いろいろやってみる。一番イヤなことは逃げちゃうことなので、それを極力減らしたいんです。
 友だちになるときには、「言葉がだめなら、何か贈り物をしてみようかな」とか、「楽器を奏でて伝えようかな」とか、ぼくだったら「絵を描いて見せようかな」って思うじゃないですか。うまくなくてもいいから言葉以外のコミュニケーションでも気持ちを伝えられるように、みんなが何かひとつでも持っておくといいなって。
 文化とか言語とかにとらわれ過ぎず、いい具合にお互いをほどよくほうっておいて。それでゆる~く気楽な感じで楽しいことを一緒にやれるのが、一番いいんじゃないかって思います。

―門さんのライブペインティングやワークショップもそんな雰囲気?

 自分のワークショップは、楽しかったらそれでオッケー。終わったあとで、描いた絵がその参加者の人生に何か響くかもしれないけど、絵を描いているときは極力シンプルでいいんです。
 音楽もダンスも絵も、本来は自己表現であり自由なものじゃないですか。そこにルールを持ち込んだら、自由じゃない。だからライブペインティングでは、そのときの状況が許される限り、できるだけ自由にやっています。
 障害のある人に対しても、「理解したい」という思いが強すぎると、「障害のある人ってこうなんじゃないか」って、ついくくっちゃう、カテゴライズしがちなんですよ。そこがお互いの理解を阻む壁になったりする。善意が壁になっちゃう、それが残念だなって感じます。だから子どものときから、ろう者とか車イスに乗っている人とか外国人とか、いろんな人たちとふれ合ってみるといいですよね。世界が広がって、もっと自由になれるかなって思います。
 世の中が “ほったらかし”と“くくりのない世界”になればいいよね。

 

左)子どもたちとのワークショップ。互いに好きなものを自由に描いていく。
右)段ボールに描くオブジェは、見る角度によって違う表情を見せる。

(終)

門 秀彦(かど ひでひこ)/長崎生まれ
絵描き/イラストレーター
ろう者の両親との暮らしのなかで、音声言語や手話だけでは伝えきれない思いを表現するため幼少期から絵を描き始める。
コミュニケーションとしてのアート表現や手話をテーマにした「TALKING HANDS」をコンセプトに、国内外でのワークショップやミュージシャンとのライブペインティングを行う。手話アートブック、 エッセイ、絵本などの著作があり、創作は多岐。 近年では日本初のサイニングストア「スターバックス コーヒー nonowa国立店」の店内アートを担当。NHKアニメーション「キャラとおたまじゃくし島」のキャラクターデザイン、フジテレビドラマ「PICU」のセット内のイラストデザインを担当するなど活躍の幅を広げている。

<Web>
KADO4LIFE:http://www.kado4life.jp/
<Instagram>
https://www.instagram.com/kado_hidehiko/
<twitter>
https://twitter.com/kadohide

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