さとり(スターバックス コーヒー nonowa国立店ASM)|大好きな自分で、光り輝くために
2024.10.22
マラソンレジェンド
2024.06.24
今もその記憶は鮮明だ。
東京1991世界陸上の男子マラソンで金メダルを獲得。
谷口浩美は当時の情景をつぶさに語った。
2025年、34年ぶりに世界陸上が東京に戻ってくる。
あの光景を再現するために、すべきこととは。
―東京1991世界陸上は谷口さんにとって、どのような位置づけの大会でしたか?
谷口 当時はソウル1988オリンピックに出場できなくて、陸上を続けるかどうかの岐路に立っていたんです。ただ様々な出会いもあり、バルセロナ1992オリンピックを目指そうとスタートしていた中で、東京1991世界陸上が開催された。僕にとっては「世界陸上に出場すること=オリンピックにつながる」という位置づけの大会でしたね。代表に決まったのが1991年3月で、その前月の東京国際マラソンは9位だったこともあり、僕は選ばれないだろうと思っていたら、理事会から連絡が来て・・・。そこから急いで準備をしました。
―どのような準備をしていたのですか?
谷口 91年2月の東京国際マラソンが13回目のレースでしたが、これまでの自分が走った全てのレースをビデオに録画していたので、それをじっくり見直しました。それぞれのレースの大会前からの練習内容はもちろん、自分の体調や何を食べていたかを記録して、レースの反省文もストックしていました。(ノートを取り出し)これにいろいろなコメントが書いてありますよ。暑い中の練習で自分の体の変化を突き詰めて、水を飲む・飲まないで体がどう反応するかというデータの蓄積もできていました。レース中にやるべきこと、やってはいけないこと全てをデータ化する。それをもとに、大会の100日前から台本をつくっていました。
―その結果、ご自身のイメージ通りの展開で走り切れたと?
谷口 そうですね。レースは生き物なので、場面に応じた対応はあるんですけれど、結果としては台本通りに収まりました。
―では、レースを振り返っていただけますでしょうか?
谷口 最初の5kmで給水があったんですけど、今と違って、一つのテーブルに全選手のボトルが載っていました。最初は大きな集団ですし、ボトルを取るのにスタッフが邪魔なんですよ(笑)。だからスタッフに「どいてください」と声をかけながら、テーブルの左側(スタッフがいる側)を走り抜けて右手で確実にボトルを取りました。通常はテーブルの右側を走り左手で取るんですけど、みんな必死なので昔はボトルを取るのも大変だった。それから15km手前で中山(竹通)さんがスピードを上げてペースアップした。そこもちょうど給水所だったんですけど、中山さんは取れなくて・・・。僕が自分のボトルを取るのと同時に、中山さんのボトルも取って渡したんです。そのときに中山さんの顔を見たら、だいぶ頬がこけていたので、「今日の中山さんは厳しいな」と思いました。ボトルを渡したことでそれが分かったので、ラッキーだったなと。
―そういうこともあるんですね。
谷口 それで30kmを通過する地点では16人いて、このままだと入賞もできないと思い、30km過ぎの給水所では先頭に飛び出しました。ここも作戦があって、たぶん僕が給水を取りに行くために前へ出たんだと他の選手は安心して走るだろうなと。それで僕はボトルを取ったと同時にスパートした。後ろの選手たちの目線は給水テーブルに行っているので、僕が目線から消えている。その隙に1㎞くらいスピードアップし、独走へと持ち込みたかったのですが、後ろにいる気配と息遣いで付いてきているのが分かり、「あー疲れた!」と思って後ろに下がりました。
―そこからどうしたんですか?
谷口 ちょっと諦めかけていたんですけど35kmを通過するときに、並走していた篠原くんが自分の時計を押したんですよ。それを見て、篠原くんが時計を押す余裕があるのなら、「俺にはもっと余裕があるはずだ」と勝手に思ったんです。そして水道橋のガード下をくぐって左に曲がっていくときに、集団は首都高の影になっている涼しい方に走っていきました。ただ僕は、右側にテレビ中継車がいたので、陽が当たっている中央ラインの方に行き、わざとテレビ中継車を追い掛け、スピードを上げてペースメーカー代わりに逃げたんです。他の選手も付いてきましたが、斜めに走ってきたぶん、僕よりも長く走っている。一気にペースを上げて、集団がばらけたところが上り坂でした。そこからは逃げの一手です。自分の台本には38kmの上り坂でスパートすることを書いていました。その通りに仕掛けて、ゴールまで行ったという感じですね。
―まさにシナリオ通りのレースだったわけですね。そういう台本を選手はみんな描いているのでしょうか?
谷口 いや、そこまでしていないと思いますよ。僕がそれをやっていたのは弱いからなんです。中山さんみたいに強ければ、スタートして帰ってくれば優勝だから。そんな強い選手に勝つためには、焦らせるしかない。勝つためには捨て身で行かないと、チャンスが生まれてこないんです。
―優勝した瞬間はどのような気持ちだったのでしょうか?
谷口 いやぁ、もう万々歳ですよ(笑)。世界陸上は当時まだ3回目だったんですけど、過去2大会は必ず開催国の選手が金メダルを取っていたんです。東京では金メダルを取れる選手がいないのに、なんで開催するんだという話もありました。それが最後の最後に僕が取ったもんだからもうお祭り騒ぎです。ウイニングランの日の丸は誰も用意していなかったらしいんです。だから国立競技場の聖火台近くで旗を振っている人から借りてきたと聞きました(笑)。それで日の丸を広げてウイニングランをしていたら、花束が投げ入れられた。これも後で知ったんですけど、その花束を持ってきた人は中山さんのファンだったらしくて・・・。もちろん僕はそんなこと知らなかったから「ありがとうございます」と受け取って走ったんです。きっと僕のファンはいなかったんだろうね(笑)。
―いやいや、そんなことはないんじゃないですか(笑)。
谷口 まぁ、本当にいろいろな意味で、自分を最大限に表現できたというのが東京1991世界陸上だったんじゃないかと今は思います。
―世界陸上の翌年に行われたバルセロナ1992オリンピックでは、追われる立場として難しい部分もあったと思いますが、どういう思いで臨んでいたのでしょうか?
谷口 今だから言えるんですけど、実は大会前に疲労骨折をして、大会の2カ月前に三重県の病院に極秘で入院していたんですよ。そこで1カ月ほど過ごしていました。そのときにマスコミにばれていたらスタートラインには立てなかった。一切報道されなかったんです。大会1カ月前に退院して、それから仕上げたのがバルセロナ1992オリンピックでした。
―結果は8位でした。
谷口 普通にレースが進んだら森下広一が優勝すると思っていました。バルセロナへ試走に行ったときは、どこで森下に勝てるかをずっと考えていました。(地図を取り出し)これが試走のときの地図です。後で映像を見たんですけど、金メダルを取った韓国のファン・ヨンジョと森下の決着がついたのは、40kmのモンジュイックの丘の下り坂だった。僕も40kmの下り坂でスパートすれば森下に勝てるかもしれないと、台本を作っていました。それはこの地図にも書いてあります。でも残念なことにそこにいなかった(笑)。
―「こけちゃいました」という名言もありましたね。
谷口 いやいや、あれは名言じゃないですよ(笑)。世界陸上で優勝したのに、オリンピックではなぜ8位だったのか。それが自分の評価なんです。転倒してしまい、なんとか入賞だけはしようと、「8位、8位」と言いながら戻ってきて「すいません、こけちゃいました」と。言い訳だったんですね。自然と事情を説明した形になって、「入賞だし、許してください」という意味合いでした。
―そんな気持ちで出たコメントだったんですね。
谷口 帰国したとき、飛行機から降りてメダリストは左側、その他大勢は右側と分けられるので、僕が右側に行くと、記者やテレビカメラが付いてきたんですね。「あれ、あっちですよ」と教えてあげたら、「いや、谷口さん。とんでもないことになってますよ」と記者がスポーツ新聞を見せてくれて・・・。そこには「こけちゃいました。谷口なんていい奴なんだ」というタイトルが付いていたんです(笑)。びっくりしますよね。言い訳が尾ひれ背びれを付けて泳ぎ出したんだなと。それから1カ月くらいは生活するのが大変でした。
―バルセロナ1992オリンピック以降、日本の男子マラソンは世界の舞台でなかなかメダル争いに絡めていません。そうした現状についてはどう考えていますか?
谷口 僕は現場から随分離れているので一概には言えないんですけど、選手たちの、マラソンで結果を出すための探究心や反骨精神が足りなくなってきたのではないか、と感じます。最近はカーボン入りの靴で飛躍的に記録が伸びた部分もあり、とにかく走らなければ強くなれないという原点が失われてきたように思います。世の中の技術革新に伴い走ることよりも、楽しいことが多くなってきた。テレビゲームが出てきたころに実業団に入ってきた選手たちは、夜遅くまでゲームをやっていて朝練に来ないなんてこともありました。これ以上やっても結果は出ないからリセットして、やり直すというゲーム感覚がマラソンにもつながってきているんじゃないかと思います。
―技術が発達したことによって、原点が失われるというのも難しい問題ですね。
谷口 あとは記録会や大会がすごく増えました。今回ダメだったら早めにやめて次に備えるという考え方ができてしまう。僕たちの時代はそういう機会が少なかったから、1回のレースをものすごく大事にしていた。結果が良かろうが悪かろうが死に物狂いで走り抜くことによって、本当の課題が見つかるものなんです。僕は負けたら負けたなりの反省文を書き、勝ったら勝ったなりの反省文を書いていた。自分自身を研究するという部分が少し欠けているところはあるのかもしれません。
―そうした課題を解決するにはどうしたらいいと考えますか?
谷口 日本は企業スポーツだから、選手たちは「感謝、感謝」と言うけど、その恩を返すには結果を出すしかないんです。みんな一生懸命はやっているでしょう。ただ、観ている人にも伝わるように取り組んでいるのか。日本人は厳しく言ってくれる人がそばにいた方がいい。アスリートだって易きに流れるんです。世界陸上やオリンピックは指導者も舞い上がってしまう。それを客観的に指摘してくれるアドバイザー的な人がいた方がいいと思います。以前は「こんな結果じゃ日本に帰れない」という日本選手団の雰囲気があった。今の世の中とはそぐわないかもしれないですけど「結果がすべて」だと現役時代の時からずっと思っています。マラソンは2時間弱走るので、持っている力を最大限に出し切る準備をして、本番の走りに繋げてほしいなと思います。
―谷口さんが注目する選手、おすすめする選手を教えてください。
谷口 出し切る走りという部分で考えると、川内(優輝)くんですね。頑張る姿にみんな拍手をしてくれるので、他の選手も自分をアピールする頑張り方をしてほしい。ただ厳しいことを言うと、他の選手にあまり期待を持てないんです。それは安定して走れる選手がいないから。安定して走るということは顔を覚えてもらうということ。それはイコール強さなんです。カーボン製の靴が出て、2021年2月に鈴木健吾くんがびわ湖毎日マラソンで2時間04分56秒の日本記録を出しましたよね。しかし鈴木くんもそれ以降は安定して走れていない。多くの人に顔を覚えてもらうことが競技力の向上につながるし、応援してくれる人が増えれば選手は強くなる。だから選手たちには安定して結果を残してほしいし、みんなに期待される選手が出てきてほしい。MGC以外で、いっそみんなが選ぶ代表選手の枠を一つ設けてもいいんじゃないかとさえ思います。
―スター選手が現れたり、日本人選手が活躍すれば自ずと注目度もあがると思いますが、それ以外で盛り上げていくためにできることがあるとすれば、それは何だと考えますか?
谷口 こちらから「この種目のこの選手を応援しよう」とあてがうことが重要だと思います。子供たちにも「陸上競技にはこんな種目がある」と言うだけでは分からない。100mや200m、マラソンなど知っている種目は限られているので、「この種目にこういう選手がいる」ということをもっとアピールする必要がある。そして、選手を応援する際に苗字で呼ぶだけではダメです。下の名前がいいんです。
―えっ、そうなんですか?
谷口 これはすごい力になるんですよ。例えば「谷口、頑張れ」と言われるより、「浩美、頑張れ」の方が、「自分の応援をしてくれているんだな」と感じられる。緊張感がある中で自分の名前を言われると一瞬ホッとしてリラックスするんです。だから名前で呼んであげるのはすごく大事です。今回は日本開催なので日本人選手はみんな言葉が分かる。ネガティブな話をせずに、プラスの話だけを大きな声で喋る。頑張らせる言葉をたくさん投げることが、選手にとって力になるんです。
―最後に世界陸上を楽しみにしているファンのみなさんへメッセージをお願いします。
谷口 人間の基本の動きである「走る・歩く・投げる・跳ぶ」の世界一を決める、陸上競技の世界最高峰の大会が34年ぶりに東京で開催されます! 世界中から集まるトップアスリートたちの最高のパフォーマンスが間近で見られるまたとない機会。見逃さないように、たくさんの人に国立競技場に足を運んでほしいです。テレビでの応援も、時差無くリアルタイムで観戦できるのが自国開催の特権ですよね。感動や勇気、何かしら感じるものがきっとあるはずです。いろいろな観戦の楽しみ方があると思いますし、日本の選手や海外の選手など関係なく、この種目のこの選手、「あなたの推し選手」を探してみるのも楽しみ方の一つかもしれません。
皆さんの応援が選手の力になります! ぜひ、選手の名前を呼んで応援してみてください。
私も応援します。
谷口 浩美(たにぐち ひろみ)/1960年 宮崎県生まれ
マラソンレジェンド
元男子マラソン選手で、自己最高は記録2時間7分40秒(日本男子歴代19位)。宮崎県立小林高校、日本体育大学を経て旭化成株式会社に所属。現役引退後は東京電力陸上競技部にて長距離・駅伝チームの監督を務める。
東京1991世界陸上で日本史上初の金メダルに輝く。翌年のバルセロナ1992オリンピックでは優勝候補の一人とされていたが、20km過ぎの給水地点で後続選手に左足シューズの踵を踏まれて転倒しタイムロスを負ったことが影響し、優勝争いから脱落。しかしレース後半で順位を上げ、結果8位入賞を果たした。ゴール後のインタビューでの「こけちゃいました」は有名なフレーズ。
現在は類まれな経歴と持ち前のキャラクターを生かし、マラソンゲストランナーや講演会活動を通して陸上界を今なお盛り上げている。
Web:https://taniguchi-hiromi.info/
text by Moritaka Ohashi
photographs by 椋尾 詩
2024.10.22
2020年6月に東京・国立市にオープンした「スターバックス コーヒー nonowa国立店」は、手話を共通言語とする国内初のスターバックス サイニングストア。 そこでひときわイキイキと働いているのが、さとりだ。 全身からあ […]
2024.10.22
2020年6月に東京・国立市にオープンした「スターバックス コーヒー nonowa国立店」は、手話を共通言語とする国内初のスターバックス サイニングストア。 そこでひときわイキイキと働いているのが、さとりだ。 全身からあ […]
2024.09.20
9月20日公開の映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』。 その原作となったのが、五十嵐が自身の半生を綴ったエッセイだ。 きこえない親を持つコーダの青年は、 何に苦しみ、何を抱え、何を見出していたのか。 そして今、ふたつの世 […]
2024.09.20
9月20日公開の映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』。 その原作となったのが、五十嵐が自身の半生を綴ったエッセイだ。 きこえない親を持つコーダの青年は、 何に苦しみ、何を抱え、何を見出していたのか。 そして今、ふたつの世 […]