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2025をつくる人たち

保科ほしな 隼希としきさん

手話通訳士

保科 隼希(手話通訳士)|きこえない人の魅力を伝える「通訳」へ

2024.02.21

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25歳。フリーの手話通訳士として
デフアスリートから厚い信頼を得ている保科隼希。
大学での恩師の出会いから手話通訳の道へ。
言葉を訳すだけではない、彼が目指す「手話通訳」とは・・・。

 

手話は人との壁をなくしてくれる「言語」

―保科さんが手話にふれたきっかけは?

保科 祖父母はろう者で手話で話す人ではあるのですが、小さなころは筆談や口話、あとは母の手話を通してコミュニケーションが取れていたこともあり、当時はあまり自分が手話を使う必要性を感じていなかったんですね。
 転機は大学の授業でした。ぼくが通った亜細亜大学にはきこえない人が各学年に一人ずつぐらいいて、手話の授業も一般科目としてあったんです。大学に入るときこえない先輩や友だちができて、彼らと「手話でもっと話したい」という思いが募ったんですよね。

―大学の一般科目に手話の授業が?

保科 そうなんです。手話はこれまでは「福祉」という考え方が強かったかもしれませんが、「言語」なんです。最近は手話に対する考え方や教育もだいぶ変わってきているかもしれませんね。
 大学の恩師で、いまも一緒に手話通訳の仕事をしている橋本一郎先生※が講師を担当されていて、そこでは大学の内外からきこえない友人たちが手話を教えに来てくれていました。きこえない人たちのさまざまな背景や歴史を知れたり、きこえない人と直接コミュニケーションが取れたりと、いろいろな視点から体に染み込んでいくような授業で、そこから手話の魅力に憑りつかれていったんです。授業が終わったあとも手話だけで話したり、ほかの授業でも声を出すと怒られるから手話で話したりしていました(笑)。

大学での一郎先生(写真右)との出会いが人生の転機に ※ご本人提供

 きこえない人たちと話していると、あまり「壁がない」と思えたんです。しっかりと目を合わせて会話しますし、手話だと自分の気持ちを表現しやすいと感じることがあるんです。
 以前、ろう者とともにおこなったワークショップで、きこえるお子さんに手話を教えたんですね。その子のお母さんからきいたお話で、ケンカをして口をきかなかったのに、いきなり手話で「すきだよ」ってお母さんに伝えたそうです。
 音声では言いづらいけど、「手話でだったら伝えられる」ことがあるのが手話のいいところなのかなって。思いをそのまま伝えたいときに、手話の方がスッと伝えられるんですよね。それは手話の言語的特徴だと思いますし、ぼくが手話に感じている魅力の一つです。

※橋本一郎さん:日本財団ボランティアセンターの研修会「ぼ活!」の講師・手話通訳コーディネーター、ろう学校での研修会講師を務める。ダンスアートプロジェクト「TSUMUGU+」の共同主宰、手話パフォーマー、結婚式や補助犬イベントの司会、ラーメン屋の店員、自ら自主ライブを開催するなど、ジャンルや型にハマらない活動を行っている。

―その頃から手話通訳になろうと?

保科 就活をしていた頃、「この仕事をしたい」というものがあまりなくて・・・。面接もそんなに得意ではなかったので、思うところに就職ができなかったんです。大学を卒業して最初の一年間はアパレル企業でアルバイトをしていました。
 その年に、ちょうど東京2020パラリンピックがあって。アルバイトをしながら手話通訳の仕事をさせてもらったのですが、それをきっかけに楽しさをおぼえ始めました。ただ「手話通訳で生活ができるか」ということも大事な点でした。いろいろ悩みながら動いていた時期に、恩師の一郎先生がすごくサポートしてくださって。そのおかげで、手話通訳の道に入っていけたという感じです。

―手話通訳という仕事の中で感じる楽しみややりがいとは?

保科 きこえない人と一緒に、自分の力だけでは行けないところに行けるというのがすごく大きいですね。東京2020パラリンピックの開会式・閉会式にかかわれたこともそうですが、例えばイベントのステージやドラマの現場、24時間テレビとか・・・。フリーランスで活動しているからこそでもありますが、いろんな場所に行っていろんな経験ができるというのは、手話通訳士という仕事がぼくの人生を豊かにしてくれている大事な要素のひとつかもしれません。きこえない人と行くどの場所にもやりがいを感じられますし、その場その場でのきこえない人たちとのコミュニケーションを通して、彼らの言葉や思いを表現できることが一番楽しいですね。いままで学んできたり、たくさんの人と出会い教えてもらった手話が、心と体に深く染み込んでいるのを感じられるからかもしれません。
 最初は人脈もまったくなかったんですが、一郎先生が仕事の現場にたくさん連れて行ってくださって、そこで知り合った方々に次は直接声をかけていただいたり。そのつながりを大事にしながら、ご縁が広がっていった感じです。

2021年、東京2020パラリンピックの開会式・閉会式での活動が
手話通訳士を志すきっかけとなった
※ご本人提供

本人が話しているかのように

―手話通訳をされる際に大切にされていることは?

保科 その人の魅力をそのまま伝えることです。きこえない人たちって本当に魅力的でおもしろい方が多いんですよ。ぼくが一緒にいて「おもしろい」と思うその魅力を、通訳として表現することに重きを置いています。それはつまり、より「本人がしゃべっている」ように話すことですね。
 そのために大事なのは、「その人のことを知る」ことです。通訳というと「ただ言葉を通訳すればいい」と思われがちですけど、その人に対する知識や理解がないと、通訳をしていてもうまく伝えられないんです。事前の下調べはもちろんですが、調べられる情報には限界があるので、やはり現場でのコミュニケーションは大事にしています。
 その事前準備の上で、通訳の際には対象者ごとに声のトーンや大きさ、高さ、そして話し方などを合わせていく・変えていくことを工夫しています。また、雰囲気や表情、間の取り方、動きの大きさを合わせていくことで「その人らしさ」を表現するように努めています。

 手話通訳はきこえない人たちのためにいると思われがちですけど、どちらかというと「きこえる人たちのためにいる」という意味合いのほうがすごく大きいんです。「きこえないからかわいそう」「話せないから手話通訳が必要なんでしょう」と言われることが結構ありますが、そうではなくて「きこえない人同士なら手話で会話ができるけど、手話がわからない人たちのためにも通訳が存在している」という考え方を少しでも知ってもらいたいですね。そこが世の中に一番広めたいところ。その考え方や見方が変われば、社会は「平等」に近づいていくのかなと思います。
 きこえない人は、社会の中できこえる文化に合わせて生きている人が多いですよね。生活の中できこえる人の言葉を読み取って生きるプロというか、「通じるように努力しよう」と思いながら生活をされていると思うんです。その状況をどうとらえるか。それは置かれている環境次第の面もありますが、もっと言うと自身の考え方ひとつなんですよね。それに尽きると思っています。

―ご自身の経験がいまの仕事に活かされていると感じることは?

保科 小中高と陸上競技をやっていて、大学では駅伝部のマネージャーをしていました。また陸上だけでなくいろんなスポーツをやっていたし観るのも好きなので、そのスポーツの知見はかなり活かされていますね。おかげでアスリートの通訳をする機会を多くいただいています。
 例えばサッカーで「オフサイド」の言葉やルール自体を知らない人がいたときに、自分がそのスポーツについて知らなければ通訳はできないですよね。あとは試合だけでなく練習の中で使う用語や感覚的なものとか、競技において何が大事にされていることなのかを理解しているので、選手に近い感覚で通訳することができます。それは選手にとってかなり重要な要素であり、選手に信頼してもらえる点なのかなと感じています。選手たちの合宿に行って、一緒に走ったこともあるんですよ。それもコミュニケーションかなって。

競技の現場では、専門的知見も通訳における重要な要素
※ご本人提供

デフリンピックの会場できこえてきた『君が代』

―2022年にブラジルのカシアス・ド・スルで開催されたデフリンピックを視察されたそうですね。

保科 コロナ禍でいろいろと制限されていたので会場に観客が多くいたわけではなかったのですが、観客がみんなで拍手の手話を「ひらひら~」と(両手のひらを顔の前に出して)やっているのを見て、すごくいいなって思いました。ただ、良い意味で「デフリンピック」という感じがなかったんですよね。各競技のルールも聴者のものと基本的には同じですし、観客はみんな声を出して応援していました。シンプルに、会場がすごく盛り上がっていたんですよ。

―表彰式では「君が代」を手話通訳された?

保科 そうなんです。水泳の表彰式を観ていたときに、日本人選手の表彰が控えていたのですが、日本選手団に国歌の手話ができる人がいなかったんですね。そこで、その場にいたぼくに「国歌の手話できるか?」と白羽の矢が立ち、急きょ国歌斉唱の通訳を担当することになりました。

―貴重な経験をされましたね。

保科 そうですね。ただ他の会場でも国歌斉唱に手話通訳がついていないことがあり、音楽だけが流れていて、選手たちは気づかずに写真撮影に行ってたりしたんですよね・・・。「せっかくの表彰式なのにもったいないな」って感じましたね。

―東京大会に向けた改善点も感じられた?

保科 デフアスリートが競技に集中できる、そしてきこえない観客も楽しめる環境づくりが必要ですよね。競技目線にはなりますが、先日、日本でデフ陸上の国際大会があり10ヶ国超の選手を呼んで開催しました。その大会に運営として、そして手話通訳として参加したのですが、選手への情報の伝達や保障の面は反省すべき点がありました。きこえる人たちの勝手ではもちろん進めてはいけないし、きこえない人たちだけがわかっていても運営できないですし。審判とのすり合わせや、情報を共有する場や手段の改善は必要だなと思いました。

―情報伝達・保障の改善点は?

保科 ひとつは、国際手話だけでは成立しない可能性があるのを理解すること。母国の手話言語に加えて国際手話をできる選手がどれだけいるかは、慎重に考えた方がよさそうですよね。ただ、ぼくもまだ国際手話は完璧にできないのですが、それでも競技の現場での海外選手との会話で、通じる部分はありました。その「なんとなく」の精度を上げていくことは絶対必要ですが、どの国の選手もスタッフも理解できるかたちでの情報保障を実現していくことが望まれますよね。
 もうひとつは、手話通訳者が競技のルールを理解していること。やはりその理解があってこそ選手が何を言いたいのかを表現できますし、その表現も状況に合わせて変えられます。手話通訳向けの共通研修を行うなど、理解促進につながる取り組みが必要になってくるだろうなと思います。

 

手話通訳士が当たり前にいる社会になれば――

―手話通訳士の現状は?

保科 日本では約4,000人の手話通訳士がいます。今では若い人も多くなってきてはいるみたいで、30代も増えてきているようです。手話を習得するまでには時間がかかるし「完全に身につけた」とはなかなか言えない仕事です。常に勉強ですし、時代によって変わっていくものですし、新しい言葉も覚えなくてはいけない。また、報酬は依頼元によって差があり、手話通訳一本で生計を立てるのはなかなか難しいのが現状です。手話通訳士がいることが「きこえない人にとってもきこえる人にとってもメリット」と思ってもらえたら、報酬も上がっていくのかなとは思いますが・・・。手話通訳が当たり前に溶け込んでいるような社会になったらいいですよね。そのためにはやっぱり「手話通訳を呼んで良かったな」と言われるようなパフォーマンスを日々していきたいです。

―2025年、東京で初開催されるデフリンピックを機に保科さんが望むことは?

保科 やっぱり、きこえない人たちの「魅力」を少しでも多くの方に知ってほしいですね。きこえない人たちにはそれぞれの魅力やおもしさがあるので、ぼくたち手話通訳を通じて彼らの良さを知ってもらい、きこえない人たちとコミュニケーションをとる楽しさを感じてほしい。その体験の届け手として、きこえる人たちに手話通訳の存在や必要性を感じてもらえたらうれしいです。
 きこえない人が身近にいる環境が増えてくれば、手話を学びたい・手話通訳になりたいという人も増えてくるかもしれない。それに、一般教養として手話を学ぶ機会も生まれてくるかもしれない。コミュニケーションの幅が広がれば、きこえる人もきこえない人も、もっとおもしろいと感じることが増える社会になるんじゃないかなって。
 あとは・・・情報保障ですね。

―特にどのような点で?

保科 例えば電車での緊急時の車内放送など、ある程度パターンがあって事前にテキスト化・手話化できる内容なら、音声放送とともに画面上に文字表示・手話表示することができると思うんです。光の点滅と合わせて行うのも有効ですよね。イヤホンをしている人も多いので、きこえない人のためだけではなく、視覚でわかる情報はきこえる人にとってもプラスの情報になるし、そういう工夫はできるはずですよね。
 東京2025デフリンピックでは競技を楽しむのももちろんですが、きこえない人たちはすごくウェルカムでオープンな人たちばかりなので、ぜひ会場へ観に行って直接応援してほしいです。手話ができなくても、デフアスリートはみんな笑顔で接してくれると思いますよ。会場には手話通訳もいるし、通訳がいなくても気持ちは通じますし。

―今後、保科さんが挑戦してみたいことは?

保科 フリーの手話通訳士として活動の枠を広げていくことですね。今も行っている手話通訳関係のコーディネート業や、セミナーや研修の開催もより広くやっていきたいです。手話をもっと身近に感じてもらうための講座なんかも、いずれはやりたいですね。そのためにも、自分の発信力を高めていきたいなと思っています。
 あとは、ぼくは福島県出身で福島が好きなので、デフサッカーの競技会場でもある福島をもっと盛り上げたいですし、福島でも精力的に活動していきたいという気持ちもあります。手話通訳を通して、今のぼくを導いてくれた実家の祖父母や家族にも届けていきたいですね。

photographs by 椋尾 詩

保科 隼希(ほしな としき)/1998年 福島県生まれ
手話通訳士

祖父母がろう者であり、幼少期から手話を身近に感じながら育った。
小中高まで陸上競技に注力。亜細亜大に進学し、恩師・橋本一郎先生の手話の授業でその魅力にのめり込み、手話通訳士をめざすことに。大学卒業後、1年間はアルバイトで生計を立てつつ手話通訳の経験を積み、現在はフリーの手話通訳士として活躍。
陸上をはじめとするスポーツへの関心の高さ、そして東京パラリンピックやカシアス・ド・スル2022デフリンピック等の現場での経験を活かし、国内のデフアスリートと競技問わず親交が深く、多くのイベント等で手話通訳を行っている。

Instagram:h.toshiki_
X:@7mLongjumper

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