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2025をつくる人たち

川俣かわまた 郁美いくみさん

日本財団スタッフ
東京2025デフリンピック応援アンバサダー

インタビューを受ける川俣さん

川俣 郁美(日本財団スタッフ)|大丈夫!あなたの将来は楽しいよ

2025.01.20

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2023年、東京2025デフリンピック応援アンバサダーに就任した川俣郁美。
日本財団に勤め、アジア地域にろうの子供のための学校を開設する取り組み等に従事している。
“当事者に会うことが大事”。その想いから自らが表に立ち、応援アンバサダーとしての活動にも尽力する。
いよいよ迎えたデフリンピックイヤー。彼女を支える原動力、そして、届けたいメッセージとは―。

聴者からろう者に変わっただけ
何も失ってはいない

―川俣さんの幼少期について教えてください。ろうになったのは高熱が原因だそうですが、どのような状況だったのでしょうか?

川俣 3歳のとき、はしかからおたふくに連続でかかって高熱が続いたんです。その後、熱は下がったのですが、親が呼びかけても反応がなかったそうです。これはおかしいと病院で診てもらったら、ろうになっていることがわかりました。その頃のことは正直全く覚えてないんです。そもそもきこえていた記憶自体があんまりなくて。
きこえなくなったことを「聴力を失う」とか「きこえなくなる」という言葉がわかりやすので使われますが、私としては私自身のことを説明するときは「ろう者になった」という言い方にこだわりたいです。
きこえなくなったというとあるべきものがなくなった、何かが失われているイメージですよね。でも、そうではなく単に聴者からろう者に変わっただけなんです。私自身はろう者になって良かったことや得たこともいっぱいありますし、聴力だけに特化して「無くなってしまった」という言い方はしたくない。ろう者としてのアイデンティティを前面に出したいんです。

―ろう者になったことを意識し始めたきっかけは何かありましたか?

川俣 6歳ぐらいまではきこえなくなったことについて、特に意識は向いてなかったですね。初めに意識したのは・・・小学校に入学するにあたって、親から補聴器をつくろうと言われたときでしょうか。私はきこえないから補聴器が必要なんだなと。でも、これは眼鏡と同じですよね。見えにくいから眼鏡をかける、それと一緒で自分はきこえにくいから補聴器をつけるんだ、という感じでした。実際に小学3年生から補聴器をつけ始め、きこえないことに対する違いに気づき始めたのはその頃からです。そして、どうしてきこえないのかという悩みがでてきたのが中学生ぐらい。思春期になって自分と他者の違いを考えるようになった頃ですね。

ろう者であること。
川俣さんのアイデンティティ

―中学生で芽生えた悩みはどのようなものだったのでしょうか?

川俣 私は宇都宮で生まれ、小学校は自宅の近く、中学は難聴学級がある学校に電車で通い、きこえる人と一緒に学校生活を送っていました。数学や理科、国語など主要な科目は難聴学級で学び、それ以外の科目、例えば体育や技術家庭などはきこえる人たちと一緒です。授業はきこえる人のペースで進んでいくので、先生の口話を読み取り切れず、自分だけが理解できないこと、グループワークでは議論に参加できずに結果が出るのをただ待つ・・・ということがありました。友達とグループで帰りましょうとなったときも話がわからないので、自分は後をついて行くだけになることもあり、そうしたことにちょっと苦しさがありました。
授業の内容は理解できないし、会話にもうまく入れない。「川俣さんはやらなくていいよ」「代わりにやってあげるよ」「きこえなくて大変なのに頑張ってるね」と周囲もサポートしてくれたり励ましてくれるのですが、それって「きこえないからできない」「きこえないことは大変・かわいそう」という視点からきているものですよね。私も次第にきこえないことは人より劣っているのだ、きこえる人に近づかなくてはいけないという思考になり、その結果きこえないことは隠した方がいいと考えるようになりました。だから中学時代は補聴器を髪の毛で隠して見えないようにしていました。

きこえる人との違いに悩まされた時期もあった
※ご本人提供

意識を一変させた出会い
アメリカ留学で味わった学びの楽しさ

―今の川俣さんは明るく楽しそうで、そうした意識を持っていたことが想像できません。考え方が変わったきっかけはなんだったのしょうか。

川俣 高村真理子さん(※)との出会いが大きかったですね。高村さんは筑波技術短期大学の非常勤講師として英語を教えていた方で、自分自身で団体を立ち上げてアメリカからデフの劇団を招いて日本で公演を開くなど、とても積極的に活動されている方でした。中学3年のときに高村さんが栃木にいらしたのでお会いすることができたんです。同じろう者でしたが、めちゃくちゃ明るくて、ろうであることを全く隠していないんですよ。そんな彼女の姿にとても影響を受けました。高村さんからアメリカのお話を聞くことができて、留学したギャロデット大学もそれで知ったんです。

※高村真理子(1958-2006):幼少時から高度の難聴であり、中学3年生の時に手話話者に出会い手話を使い始める。1995年、聴覚障害者の社会的支援を目的とする社会的企業「WE」を設立。世界各国の聴覚障害者の文化を日本に紹介する。並行してNHK「ろうを生きる 難聴を生きる」のキャスター、筑波技術短期大学(現在の筑波技術大学)非常勤講師、アメリカ手話指導、日本のみならず東南アジアのろう学校での手話ダンス指導、ライター、講演会活動など多彩な活動を展開した。

―ギャロデット大学は学生の9割がろう者ということですが、これまで通ってきた学校との違いをどんなところで感じましたか?

川俣 これまできこえる人の学校に通っていて、中学は難聴学級がありましたが、先生も生徒も指文字や口話が中心で手話が使えませんでした。それがギャロデット大学では学生や先生はもちろん、職員も含めてほぼ全員手話を使えるんです。食堂でも売店でも手話を使えるという環境なので、大学生活は手話でのコミュニケーションで困ることが一切ありませんでした。授業で驚いたのは情報量の多さ。これまでは先生が話していると口元を集中して見て内容を理解して、なんとかノートをとっていました。ですがみんなが手話を使える環境では、例えば先生が話したことに対して隣の生徒がボロっと言ったことや学生同士の雑談、独り言までがわかるんです。今まで先生にだけ集中して、先生が生徒を指名したらその人を見て、そこで初めて発言を知るというレベルだったのが、誰が何を話をしているのかがわかり、そこから情報を得ることができるようになったんです。今までとても少ない情報量の中で勉強してきたんだなということに改めて気づきました。
それに、議論もできるんです。先ほどグループワークでは議論に参加できずに結果が出るのを待つだけだった・・・という話をしましたが、大学ではディスカッションをして一緒に考えることができる。それがすごく楽しくて、大学では学ぶことの楽しさを実感できました。

高村さんとの出会いから決心した留学。
そこには今までにない環境が待っていた
※ご本人提供

―設備の面では何かありましたか?

川俣 一般的には注意を引きたいときは「はい、みなさんこっちを見て」と音声で言いますが、ろう者の場合は電気をチカチカさせるんですね。その電気のスイッチが通常は出入口のドアのところにあるのですが、大学では全教室のホワイトボードの下にもありました。わざわざ入口まで行かなくてもホワイトボードの下に電気のスイッチがあるので、授業中も無駄に移動して時間を取られずに済みます。また、同じくすべての教室にテレビ電話があり、プロジェクターが映らないとか電気がつかないなど、不具合が起きた場合はその場から手話で話して連絡が取れました。
授業は手話で行われますが、読み書きは英語で、レポート提出は英語かアメリカ手話。手話でレポートを提出する際は手話で発表する様子を動画で撮影して提出するのですが、それを撮影・編集するためのスタジオやパソコンといった機材も揃っていて、学生が自由に使えるような環境でした。

―とても環境が整備されていますね。そのほかで印象に残っていることはありますか?

川俣 イベントなどにも必ず手話が付いているので、授業が終わった後にふらっと参加できます。これが一般校なら前もって手話通訳の有無を確認したり、自分で手話通訳を予約したり、イベントによっては通訳をつけられないなどいろいろと面倒なことがありますよね。ですがギャロデット大学は手話があるのが当たり前だったので、コミュニケーションのストレスはなく楽しめました。同時にこれがきこえる人の「普通」なんだと実感しました。他にも、大学にろう者がたくさんいるので、学校の周囲の飲食店やバーなどの店にはろう・難聴の店員もしくは手話ができる店員さんがいて、ろう者に対する理解がありましたし、手話で参加できるイベントが学校外でもたくさん開催されていたのも印象に残っています。

コミュニケーションのストレスなく学び、楽しめる
ろう者のための環境
※ご本人提供

ろうの子供がきちんと学べる学校をつくる
夢に向かって進む姿そのものがロールモデル

―充実した大学生活だったのが川俣さんの表情からもよくわかります。専攻はなんだったのでしょうか?

川俣 専攻は学士ではソーシャルワーク、そして修士は国際開発と行政学の二つを取りました。留学をしたのは国際協力をしたいというのと、学校に行けない子供たち、特にろうの子供たちが学校に行けるようにしたいという夢があったからです。ギャロデット大学は学士には国際協力関連の学部がなかったので、最初は教育学部がいいのかとも考えていたのですが、当時ソーシャルワーク修士課程に在籍していた高山亨太さんに相談したところ、「インターナショナルソーシャルワークがいいのでは」とアドバイスを受け、ソーシャルワーク学部の先生方を紹介いただきました。インターナショナルソーシャルワークは、国際社会の中で制度が追い付いていないこと等により生活が困難になってしまっている方々を支援するというもので、もしかしたらこちらの方が困っているろうの子供たちにアプローチできるのでは、とソーシャルワークの学士を取ったんです。

―現在、日本財団で、アジアのろうの子供たちが手話で学べる学校を立ち上げる等のお仕事をされています。夢が叶ったのですね。

川俣 これまで日本財団はアジアの子供たちが手話で学べる学校をベトナムとラオス、フィリピンの3カ国に立ち上げました。でも、実際はまだまだ学校が足りていません。今後はアセアン地域においても手話で学べる学校をつくっていきたいという目標があるので、まだまだ夢半ばです。

―学校を立ち上げるにはどのようなことが必要なのでしょうか?

川俣 ろうの場合は先生方に手話で教えてもらわなくてはいけません。そのために、まずは手話を先生方に教えられる人材と、教えるための教材が必要です。今まではその人材も教材もなかったんです。まずはろう者を中心に手話言語学を学んでもらい、その国の手話辞書や手話教材を作成し、さらに手話の教え方なども学んでいきます。それができたら、今度はきこえる先生方が手話やろうの子供たちに手話で教えるにはどうしたらいいのかを学びます。そうした段取りになるので、他の障害と比べると手話の面でやはり時間がかかってしまうところがあります。
ところが・・・、国連が障害者権利条約で打ち出している「インクルーシブ教育」に対して、障害の有無を問わずみんな一緒に学ぶのが良い=ただ同じ教室で学ぶこと、という誤った認識が近年広がりつつあるように思います。みんな一緒に学べることは確かに大事なことではありますが、一緒に学ぶときには配慮が必要です。その子供に合わせた教え方ができることが最低限必要で、ろう者には、先生も周りのスタッフにも、ろう者や手話ができる人が必要であることも条約に書かれています。きこえない子供ときこえる子供が同等の教育や経験を受けられない状況はインクルーシブ教育とは違います。一人ひとりのニーズに合わせてきちんと教育を受ける環境を整えることが大切であり、学校を立ち上げるのみならず、行政へアプローチしていくことも重要だと考えています。

真のインクルーシブ教育とは何なのか
※ご本人提供(立ち上げ等に関わったフィリピンのベニールろう学校)

―川俣さんが子供たちの教育に興味を持ったきっかけはなんだったのでしょうか?

川俣 きこえる人たちと同じ学校に通う中で、中学校までは何とかついていけたのですが、高校は内容が難しくてついていけなくなって。勉強したい気持ちがなくなってしまったんです。それまではずっと前の席に座って先生の話を一生懸命に理解しようとしていたんですが、高校になるともう前に座らなくてもいいやって。学校に行く意味って何だろう、私は学校に行ってもきちんと学べていないから行く意味がないんじゃないか・・・と思い始めた頃に、テレビでガーナの小学生の兄弟のドキュメンタリーを見たんです。
兄弟にはお父さんはいなくて、病気で伏せるお母さんがいて。生活保護の制度なんてなく、兄弟がお金を稼がなくてはいけない。学校に行きたいけれども行けずに朝から晩までカカオ農園で働いているという内容でした。それを見て、片や学校に行きたくても行けない子供たちがいる、片や私は学校に行ける環境なのにのんべんだらりと通っている・・・。改めて学校というものを考えたときに、学校は学問を学ぶ場ではあるけれどそれだけではなくて、同級生や先生などいろいろな方と関わることでマナーや理論、協調など社会性を学べる場であることに気づけたんです。それで、ガーナの兄弟のような子供たちが学校に行ける環境を、自分でつくってみたいと思うようになりました。

ろうの子供たちの教育環境を整える。
夢を、今カタチにしている

家庭菜園と旅行でパワーを充電

―少し川俣さんのプライベートな部分を教えてください。お休みの日は何をしていますか?

川俣 最近はほとんどデフリンピック関係のイベントに参加することが多くて、休みという休みがないんです(笑)。完全なお休みの日は家で家庭菜園をしています。この夏はゴーヤ、ナス、きゅうり、トマトなどを栽培したのですが暑さのせいかなかなか育たず。それでもゴーヤ、ピーマン、唐辛子はまあまあだったかな。食べにくい野菜たちはすごく育ち、食べたいものがなかなか育たなかったですね(笑)。

―ほとんど休みもないとは・・・。お忙しいとストレスは溜まりませんか?

川俣 美味しいものを食べたり、旅行に行ったりしているので、それがストレス発散になっていますね。一昨年は友人と一緒に沖縄へダイビングに行きました。沖縄の海は色が全然違いますよね。海そのもの色もそうですが、魚や岩、サンゴなどのカラフルな色合い、海の生物の独特の動きは陸では見ることがないもので、まさに別世界! ダイビング中も手話でおしゃべりできますし、すごく楽しかったです。

―沖縄でダイビングはいいですね。他に最近出かけたところで印象に残っているところはありますか?

川俣 長崎の五島です。同じく応援アンバサダーの長濱ねるさんが幼少期に過ごされていたところですよね。景色も食事もよくて、特に五島うどんは美味しかった(笑)。五島はキリスト教迫害でキリスト教徒であることを隠さなくてはいけなかった歴史があり、それはほんの少しろうの辛かった歴史(※)とリンクするなと感じて、勉強しながら回りました。旅行には夫も一緒に行くことが多いので行先は相談して決めていますが、夫が「ここどう?」と提案したものに乗ることが多く、五島もそうでした。でも5月に行ったアメリカは私からの提案で、大学時代の同級生2人に会いに行きました。夫は初のアメリカでしたし、ギャロデット大学にも一緒に行けたのでとても良い思い出です。

※1880年にミラノで開催された第2回国際ろう教育会議において、ろう教育における手話の禁止が決議され、これを契機に世界中のろう教育から手話が排除された。日本でも1933年の文部大臣の訓示によりろう学校での手話の使用が禁止され、多くのろう教員も解雇された。「手話は手まね―日本語より劣る」「手話をすると日本語が習得できない」といった偏見を社会に助長し、学校や公共の場で自由に手話を使えず、隠れて手話を使っていたという。この決議は2010年、バンクーバーで開催された第21回同会議で公式に否定された。

自宅の家庭菜園ではこんな立派なスイカも!
※ご本人提供
ダイビング中も手話でおしゃべり
※ご本人提供

―さらにプライベートなことですが・・・旦那さんとの出会いは?

川俣 夫も出身が同じ宇都宮なんです。夫はデフファミリーで、お父さんが栃木県聴覚障害者協会の理事長でしたので、実は彼より先に義父を知っていました。子供の頃に、息子もろう者だよという話をきいてはいたんですが、小・中・高と彼とは会うことはなく、初めて会ったのは大学生になって夏休みに帰国したとき。そのときは「理事長の息子さんなんですね~」ってくらいの印象でした(笑)。その後、何となく会う機会が増えて。私が大学を卒業して宇都宮に戻り、栃木県聴覚障害者協会の青年部に所属してからは、イベント企画などで一緒に働くことになりました。そのうちに親しくなり、お互いに将来像がマッチしたこともあり結婚に至りました。

旦那さんと母校のギャロデット大学へ
※ご本人提供

国全体がろう者を歓迎する雰囲気に感動
その体験を再び、東京で

―貴重なお話をありがとうございます! 話は変わって、サムスン2017デフリンピックではサポートメンバーとして大会に参加されました。そのときの印象を教えてください。

川俣 飛行機でトルコの空港に着くときに、機内のモニターにデフリンピックを応援するPR動画が流れたり、空港の荷物を受け取るターンテーブルにデフリンピックのエンブレムが貼ってあったり。街中では道路の街灯にエンブレムが飾ってあり、デコレーションをしたリムジンバスが走っていて、街全体がデフリンピックを歓迎している雰囲気で、ろうであることを国レベルで歓迎してもらっているようでした。そんな機会はそうそうないので、ろう者として誇りに思い、すごく嬉しくなったのを覚えています。
競技は音に頼らずに行われるので、全ての選手が対等に試合に臨めます。観客席から見ていても手話がそこかしこにあるので、今何が起きているかが全て目で見てみてわかるんです。選手も競技に集中できるし、応援している観客も楽しい、本当にそんな雰囲気でしたね。最初から最後まで本当に興奮しっぱなしの毎日でした。

「ろうであることを国レベルで歓迎してもらっている」

―今回、東京2025デフリンピックの応援アンバサダーに就任されました。そのお話を伺ったときはどのような気持ちでしたか?

川俣 本当に驚きました。国際手話ができるので何かしらお手伝いができればとは思っていましたが、まさか応援アンバサダーとは。ろうで活躍している人はたくさんいるので、本当に私でいいのかととても悩んだというのが正直なところです。

―受けるという決断をした理由はなんだったんのでしょうか?

川俣 とても悩んだので、東京都の方々や全日本ろうあ連盟の方々、それから職場の上司、家族などいろいろな方に相談したんです。その中でおっしゃっていただいたことの一つが、ろう・難聴の子供たちの良いロールモデルの一人になると。今はろう学校に通う子どもがどんどん減ってしまっていて、きこえない子供たちは地域のきこえる学校に通っていることが多いんです。なので、大人のろう者に会う機会がろう学校にいる子供たちより限られてしまうんですね。私自身も地域の学校に通っていて、今のろう・難聴の子供たちが置かれている環境に近かったからこそですが、一つのモデルとして、働くろうの大人の姿を見てもらえたらと思ったんです。
また、アンバサダーだからといって何でもできる必要はないよね、とも・・・。自身の力を100%発揮できる環境を整えることも大事ですが、私自身、まだまだできないことや足りないこともたくさんあると思っています。ただ、それをすべて自分だけで解決するのではなく、周囲の人に補ってもらって、お互いが頼り合いながら創っていければ素敵だなと思うんです。それこそが共生社会なんじゃないかなって。だからこそ、多様なろう者を見てもらい、多くのロールモデルに出会ってもらいたい。私がそのロールモデルの一人として、社会の中でお互いに頼り合う姿を示していければいいのでは・・・という考えに至り、謹んでお受けすることにしたんです。

2023年秋、アンバサダー就任。
お披露目は「みるカフェ」オープニングセレモニーにて

―頼り合える社会は暮らしやすそうですね。応援アンバサダーになって力を入れたいことはなんですか?

川俣 いろいろなところに出かけて多くの人に出会い、デフリンピックのこと、ろうのこと、手話のことを皆さんに届けたいです。ろう者と会ったことがない人もデフスポーツを見たことがない方も大勢いると思うので、デフリンピックをきっかけに興味を持ってもらい、ろう者に抱く「かわいそう」「大変なことばかり」という思い込みを無くしていただきたいです。知ってもらうためには、きこえない当事者に会うのが一番なんです。だから、ありがたいことにいろいろなところから講演やイベント出演の依頼をいただいているので、できるだけ足を運んで交流を続けていきたいです。

―子供たちとの交流で印象に残っていることはありますか?

川俣 先日、私の地元の宇都宮の小学校に行き出張講座をしたんです。終わった後で子供たちに感想をきいたら、ある児童が「耳がきこえないのはとても大変ですごく辛いのかなと思ったけど、違うんだ。楽しいことがいっぱいあるんだね」って言ってくれたんです。それがすごく嬉しくて、危うく泣きそうでした。

―それは嬉しい言葉ですね。子供たちは川俣さんと交流して、川俣さんがかつて高村さんに抱いたのと同じような気持ちを持てるのではないでしょうか。

川俣 そうだと嬉しいですね。私自身も小さいとき、自分が将来何になれるのか不安になったことがあります。テレビを見てもそこには聴者しかいなくて、ろう者に触れる機会は少なく、近所のお店も病院も学校もどこもかしこもきこえる人ばっかりで。仕事をしているろう者に会う機会が全然なかったから、とても不安で・・・。そんなときに高村さんにお会いして、こんなふうになれるんだってすごく安心したのを覚えています。だから子供たちに、「大丈夫なんだ」と感じてほしいですね。そのためにも、私の感じる楽しいことをもっともっと発信していきます。

「楽しい」を届ける。
それが川俣さんの在り方

―ちなみにですが、旦那さんにもアンバサダーの件を相談したと思いますが、どのような反応でしたか?

川俣 「あぁ、いいんじゃない。迷うならやってみたら」とすごくあっさりと言ってました(笑)。忙しくなってしまうけどいいの?ときいたら大丈夫、大丈夫って。夫はあっさり系の性格で、結構正反対ですね、私とは。

―そんなにあっさりだったんですね(笑)。デフアスリートで交流がある人はいますか?

川俣 サムスン2017大会をきっかけにアスリートと交流が生まれたので、TOKYO FORWARD 2025の「ATHLETE ~選手を知ろう~」に登場している選手たちはほとんど知っています。それとは別の選手ですと、特に仲が良いのは堀口昂誉(ほりぐち・たかのり)選手です。デフ陸上の十種競技の選手で、先日の日本デフ陸上では2位に輝いていました。堀口さんご家族とは家族ぐるみで仲良くしてもらっています。

―楽しみにしている競技はありますか?

川俣 どれも楽しみですが・・・、今まで日本選手が出場したことがない射撃とテコンドー、ハンドボール、レスリングにとても注目しています。先日トライアウトが行われて有望な選手が見つかったという話をききました。日本選手が初出場となれば新しい歴史の始まりですし、もしかしたら観に来てくれる方も増えるかもしれないですよね。そこに期待していますし、私もぜひ観に行きたいです。

―100周年という歴史ある大会が、初めて日本で、東京で開かれます。どんなことに期待していますか?

川俣 サムスン2017大会に参加したときに、本当に言葉にならないくらい感動しましたし、ろう者で良かったと思えたことがたくさんありました。選手だけではなくスタッフやボランティア、運営の体制のトップの中にもろう者がいる環境で、選手が競技に集中して純粋に戦える状況を見て感動したんですね。それが今度は東京で開催される。世界中からろうの選手が集まり、世界レベルの戦いを見ることができます。そうした大会に関わるろう者たちの姿を、ろうの子供たちにロールモデルとして示すことができたらいいですよね。ろう者に限らず障害者はどうしてもかわいそう、大変そうって見られてしまいますが、それをスポーツの力、デフリンピックの力でそうではないんだぞと示せることに期待したいです。
デフリンピックはそもそもきこえない人のための国際スポーツ大会という位置づけではありますが、この大会を機に、結果的にいろいろな人にとって有益な社会になっていければいいですよね。これまでの社会を見ていくと、どうしても数の理論のマジョリティが優先で、マイノリティの障害者は後回しになっています。少人数だから、商売にならないから、と蓋をされてしまっていたものでも、実際にそこに特化してつくってみたら実はマジョリティにとっても便利になるものはたくさんありますよね。それがデフリンピックからたくさん生まれて、みんなが住みやすい社会をつくる一助になってほしいですし、していきたいです。

―いろいろなお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に読者へのメッセージをお願いします。

川俣 デフリンピックは世界トップレベルのデフアスリートが集まる大会です。それが東京という、皆さんが観に行ける場所で開催されるんです。大会では選手もスタッフも音に頼らず、いろいろな工夫から競技に集中する姿を見ることができます。とても楽しめますし、感動する場面もたくさんあると思うので、ぜひ会場に足を運んで彼らの輝きをその目で見てみてください!
そして、現地では競技を見ていただくのはもちろんですが、ぜひ選手やスタッフとの交流も楽しんでいただきたいです。ジェスチャーでも、音声を文字化するアプリなどを使ってもよいですし、ぜひ気軽に話してみてください。新しい気づきや発見がたくさんあるはずです。皆さんの明日がちょっとでも変わるような、そんな素敵な出会いが東京2025デフリンピックで起こりますように。会場で皆さんにお会いできることを楽しみにしています! 見つけたら声かけてくださいね(笑)。

川俣 郁美(かわまた いくみ)/1989年 栃木県生まれ
日本財団スタッフ|東京2025デフリンピック応援アンバサダー

3歳の時に高熱でろうに。日本財団聴覚障害者海外留学奨学金事業5期生として米国に渡り、ギャロデット大学ソーシャルワーク学部卒業。その後も同大学院行政・国際開発専攻修士課程に進み、修了。
日本財団にてアジアのろう者支援事業のコーディネート等を担当。
栃木県聴覚障害者協会理事。デフリンピックサムスン大会に日本選手団のサポートスタッフとして参加。

Instagram:ikumi_kawamata

text by 木村 理恵子
photographs by 椋尾 詩

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